願望
どこかに行って、そして行ったまま、消えてなくなってしまう気がした。
水に現れては何事もなかったかのように消えていく泡のように。
でも泡のように何度も現れては消え現れては消えではなくて、一旦消えたらもう私の前にそう何度も姿を現さなくなるような気がする。
私の知らないところで、貴方が消えてしまう。そんな、気がする。
ある日、本当に何でもない日に、貴方はとんでもないことを私に告げた。
「ミクリ、僕ね、チャンピオンを辞める」
それを聞いた途端、私の心は驚きと信じられない気持ちと、信じたくない気持ちと不安で満たされた。
不安というのは、ダイゴがどこかへ行って消えてしまうのではないか、という不安だ。
どうして、何で。じゃあこれから貴方はどうするの。チャンピオンの座はどうするの。何で辞めるの。
疑問は次々湧き起こったけれど、口に出してダイゴに尋ねることはできなかった。
答えを聞きたくなかったから。
何で辞めるのかという問いに答えられたら、私はそのことを受け入れなくてはならなくなる。まだ信じたくないのだ、ダイゴがチャンピオンを辞めるだなんて。
だって、あれだけいっつも一緒に戦って、一緒に冒険もして、一緒にチャンピオンを目指して、一緒に過ごしてきた。
そして私と貴方が最後の正式なバトルをした日、つまりチャンピオンを決めるバトルの日、私たちはお互い全力で戦って、貴方が勝って私が負けた。
貴方は私に勝って、とても嬉しそうに、とても誇らしそうに笑っていた。
この人がチャンピオンなら私は何も文句はない、と、貴方がチャンピオンになった瞬間からずっと思っていた。
石ばっか見てて、怠け者で、不真面目で、手のかかる人間だけれど。
でもポケモンへの愛情は限りなくて、子供っぽいからこそ子供たちとも上手く接して夢を与えて、誰とでも対等に向き合えて。
そんな彼がチャンピオンだったからこそこのホウエンだってちゃんと成り立っているのだと、いつも私は思っている。
だから余計に信じたくないのだ。
ダイゴがチャンピオンを辞める、だなんて。
私がダイゴの発言にショックを受けて何も言えずにいると、ダイゴが不思議そうに私の名を呼んだ。そこで私は我に返って、ようやく返事をした。
「あ、その…すみません」
「いや、別にいいけど…やっぱりびっくりしたかな?」
あはは、と困ったように笑うダイゴは、本当にいつも通りだ。
まるでチャンピオンを辞めることなど、彼にとってさして重大なことではないように。
さらにダイゴは次の言葉で、私をもっと驚かせた。
「でね、ミクリ、お願いがあるんだけど。僕がチャンピオンを辞めた後は、君がチャンピオンになってくれないかな?」
氷の塊が力いっぱい地面に叩きつけられて粉々になってしまうような、冷たくて鋭い衝撃を受けた。
彼の跡を私が継ぐだって?そんな馬鹿な。
「……どうして、私に…?」
冷たい衝撃のせいでいつもみたいに落ち着いてはいなかったけれど、でも何とかその質問だけはできた。
「やっぱりミクリが適任だと思ってさー。僕とあれだけ対等に渡り合えてきたミクリなら、チャンピオンだってできるよ」
ダイゴは笑いながら言った。
勝手な決め付けだ、そんなの。私なんかにチャンピオンが務まるものか。
貴方がチャンピオンであったから、このホウエンが成り立っていると思っている私には、残酷な決め付けだ。
第一どうしてダイゴがチャンピオンを辞めるのかも知らないのに、私がチャンピオンになることを受け入れられるはずがない。
ならばどうしてチャンピオンを辞めるのか訊こう、とも思うがそれはできない。答えをまだ聞きたくない。私はまだ、この人がチャンピオンを辞めることを認めていない。
――――消える、気がした。
ダイゴが、チャンピオンを辞めてどこかに行って、そのまま消えてしまうような気がした。
だって、この人はそうだ。
早く走らないけど、でもゆっくりと着実にどこかに向かって歩いていて、私から遠ざかっていく。
貴方は自分の本能のままに歩くから、どこに向かうのか見当もつかない。
いなくなったと思ったら、また私の元に現れて、またどこかへ消える。
そうしていつか、私の前から完全に消えてしまう。
私に彼を引きとめられる権利などない。自由にさせることで貴方はいつも輝いているから。
ダイゴがチャンピオンを辞めると言い出したことで、ダイゴが消えるのではないかという私の不安は一気に現実味を帯びて、不安が恐怖になった。
ダイゴが泡のように消えて、二度と私の前に現れなくなることが怖い。
貴方がいなくなった状態で、私が平然とチャンピオンとしてホウエンの頂点に立っていられるわけがないだろう?
「ミクリ、どうしたの?」
また、私が俯いて黙ったままで何も言えずにいると、ダイゴが私を呼んだ。
きっと彼だって分かっているはずだ。今、私がどんな気持ちでいるか、なんて。
だけど彼は答えてくれない。それが、私の中にある全ての疑問の答えなのだろう。
少なくとも、今は答えられない。そういうことだ。
それが答えだと言うのなら、私はダイゴを問い詰めることはできない。
そのことが悲しくもあり、私はまた何も言えなくなってしまっている。
「…ミクリ、聞いて」
私の沈黙に耐えられなくなったのか、ダイゴが私の肩を抱いて、それから背中を優しく撫でながら口を開いた。
「僕は、チャンピオンを辞める。もう決まったことなんだ」
初め私にそのことを告げたときとは違って、ダイゴは静かに神妙に言った。
まだ不安や恐怖でいっぱいの心を抱えながら、私はその言葉に小さく頷いた。
「そして後継として君を推薦している。全部本当のことだよ」
私はまた小さく頷く。
本当、と言われてやはりこれは現実なのだと実感させられた。
「チャンピオンを辞めても、僕はミクリの傍を離れないから。これも本当のことだよ」
ダイゴが私の目を真っ直ぐに見ながら、そう言った。
ここで言う、傍を離れない、は物理的にではなく精神的に、という意味だとすぐに分かった。
傍に貴方の体温を感じられないと意味がないときだってあるというのに。
こんなことを言われて、彼が消えてしまうという不安や恐怖がなくなるわけではない。
そういうわけではないけれど、ダイゴが私の傍を離れないと言ってくれたことは私の救いになる。
一度言い出したらきかない彼のことだ、私はいつか彼がチャンピオンを辞めることを認めなくてはならない。
そして彼の跡を継いでチャンピオンにならなくてはならない。
認めたくないしチャンピオンだってやっていける自信もない。
だけど。
それでも。
「……少しでも傍を離れたら、許しませんから」
「大丈夫!僕は大事な人との約束は守るからね」
ダイゴが消えていなくならずに、ずっと私の傍にいてくれるというのなら、私も前に進んでみよう、という気になれた。
どこかへ行っても、絶対私の元へ帰ってきて。
消えてなくならないで。
ずっと私の前にいて、私の手を引いて。
私の大好きなホウエンの頂点にいて、みんなを導いて。
お願いだから、私の前からいなくならないで。
貴方がチャンピオンを辞めても、私がチャンピオンになっても、
今まで通り、ずっと私と一緒にいて。
END.
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ダイゴがチャンピオンを辞めるときの話。
切なくて甘い、を目指したのにとんだ乙女なミクリの脳内をひけらかしただけになったあわわわわ;;
ダイゴは放浪癖ありそうw「石が僕を呼んでるー!」とか言って(笑)
ミクリはダイゴの邪魔をしなさそう。